明治10年 西南戦争
きょうは明治10年の西南戦争についてお伝えします。
明治6年の政変で鹿児島に帰った西郷隆盛は、私学校と吉野開墾社を設立し、国家を担う人材の育成や禄を失った士族の救済に取り組みます。
私学校設立には西郷と下野した、桐野利秋、篠原国幹、村田新八らのほか征韓論争で対立した大久保利通も資金を出しました。
しかし、鹿児島は県令の大山綱良が税を政府に納めない上、私学校関係者を要職に就けるなど、次第に士族の独立国といった様相となります。
明治9年、政府は鹿児島に強い警戒の目をむけるようになり、大久保は、警察のトップで薩摩出身の川路利良に命じ密偵を派遣。
一方、明治10年1月政府が草牟田の陸軍火薬庫から弾薬を大阪に運び出そうとしたことに私学校の生徒らは怒り、火薬庫を襲撃しました。
さらに、帰郷を名目に送り込まれた警察官が、西郷の暗殺命令ともとれる電報を持っていたとされ、政府への不信は頂点に達します。
西郷と私学校幹部は対応を協議し、強硬派、慎重派、それぞれから様々な意見が出る中、桐野が出兵の決断を唱えます。
それまで蜂起を抑えてきた西郷は「おいの体をおはんたちに差し上げもんそ」と答えたということです。
「政府に聞きたいことがある」、県令の大山にそう届け出た西郷は、明治10年2月15日、大雪の中、私学校兵1万を率いて北上を開始。
7日後の2月22日には鎮台が置かれた熊本城を包囲しますが、司令の谷干城の籠城を崩せず、包囲する兵と北に進む兵を分けます。
3月4日、熊本城の北に位置する田原坂で、政府軍と西郷軍が激突。戦闘の激しさは空中で弾丸がぶつかり合うほどでした。
3月20日早朝、総攻撃をかけた政府軍は、田原坂を押さえ、西郷軍を破ります。
これ以降、政府軍は援軍を九州各地に送り込み、西郷軍は9月まで人吉、大口、宮崎などで戦死者を出しながら敗走を続けます。
8月21日、西郷が延岡付近の山の中を敗走していた頃、東京・上野では、大久保が殖産興業の一環として内国勧業博覧会を開きました。
美術、農業、機械などの展示館が設けられましたが、西南戦争やコレラの影響で、入場者数は目標を下回りました。
9月1日、7か月ぶりに鹿児島に戻った西郷軍は城下の政府軍を突破し、城山にこもります。
最大で3万人を超えていた西郷軍は、このとき、350人余りになっていました。