慶応4年2月5日 松平容保 藩主の地位を降りる
きょうは慶応4(1868)年2月5日です。京では、慶喜討伐に向けた準備が本格化する中、会津の松平容保は、藩主の地位を降りることを決めました。
おととい3日、徳川慶喜の追討作戦を、天皇の指揮で行うことを宣言する「天皇親征の詔」が発せられました。
軍の編成も進んでいて、江戸へ向かう東征軍の大総督には、有栖川宮熾仁親王が就く見込みで、西郷隆盛らも同行するとみられます。
一方、慶喜と江戸に逃れた会津藩主の松平容保は、朝廷に恭順の意を示して寛大な処置を願い出ていますが、きょう、藩主の座を養子の喜徳に譲ることを決めました。
藩主の座を降り、藩内外に新政府と戦わない姿勢を示す狙いですが、会津の家臣には新政府の薩摩・長州に対する強硬派も多く説得は簡単ではないとみられます。