政権交代
きょうのテーマは「政権交代」です。
こちらは平成の30年間の総理大臣をまとめたものです。
総理は17人に上りますがこの間、政権交代をめぐる大きな動きが2回ありました。
1回目は細川内閣誕生です。自民党が昭和30年、1955年に与党第1党となってから38年続いてきたいわゆる「55年体制」が崩壊しました。
自民党は翌年、社会党、さきかげと連立して政権に奪取し、平成8年からは再び、自民党政権が続いていましたが、平成21年に2回目の大きな政権交代が起きました。民主党政権の誕生です。
これらの政権交代について飯伏記者の報告です。
平成5年8月6日。死者・行方不明者は49人と、平成の自然災害では県内で最多の犠牲者を出したこの夜、東京では…。
共産党以外の非自民8会派による細川内閣が誕生。
与党=自民党、野党第一党=社会党といういわゆる「55年体制」が崩壊し、38年続いた自民党政権が終わりました。
(保岡興治元衆議院議員)「自民党が長年の政治の弊害、国民に飽きられた、愛想をつかされたとか、いろいろあると思う。」
川内博史さんは、直前の衆院選で日本新党公認で出馬し、落選中でしたが当時、新しい政治への期待を感じたと話します。
(現・立憲民主党 川内博史衆議院議員)「斬新な登場の仕方で8・6水害で細川さんが被害の視察に来たとき、被害を受けている人たちが熱狂的な拍手で細川さんを迎えるみたいな、ある種独特な政治的状況、新しい政治が始まるんだとそんな雰囲気の中に身を置いていた」
連立政権は小選挙区制の導入などの政治改革を行ったものの、求心力を失って短命に終わり、翌平成6年、自民党は仇敵の社会党を抱きこむ形で政権に復帰しました。
その後、野党が離合集散を繰り返し、平成8年から自民党による政権が続いていましたが、小泉総理の後、平成21年9月まで3年間で総理3人が1年おきに交代するなどし、国民の政治不信も高まりました。
そして始まった平成21年の衆院選では、県内5つの小選挙区で議席を独占していた自民党が前職5人を擁立したのに対し、選挙協力した民主党と国民新党が全選挙区で対立候補を擁立。政権選択を焦点に激しい選挙戦を繰り広げました。
自民党のベテランが落選する中、民主党は比例復活を含め、4人全員が当選。
「官僚依存から政治主導・国民主導」「コンクリートから人へ」など大幅な政策転換を訴え、鳩山内閣が華々しくスタートを切りました。
しかし、当時民主党の衆議院議員だった川内さんは、ある不安を抱いていました。
(川内博史衆議院議員)「みんなが熱狂している中で、所信表明演説で鳩山総理が表明したことをきちんと実現するためには相当な壁があるなと、感じながら聴いた」
「政治主導」を掲げた鳩山総理は、普天間基地の沖縄県外への移設を約束。移設先として徳之島も浮上し、反対運動も起こりました。
「この豊かな自然あふれる島をそして人々の絆を壊さないでください」
政府からは公式に徳之島へ打診がないまま、官邸から町長たちに、面会を要請する電話が。
その後、日米共同声明に辺野古移転が明記され、政権は県外移設を断念。さらに鳩山総理の「政治とカネ」をめぐる問題も浮上し、鳩山政権は、8か月の短命におわり、民主党政権下でも総理が1年ほどで交代を繰り返し、政治は迷走しました。
平成24年の衆院選では、自民党が圧勝して政権を奪還。
鹿児島でも自民党は3区を除く4選挙区で圧勝。比例代表も含めると、県関係で6人が当選しました。
これに対し民主党は、立候補した3人全員が落選し、鹿児島での議席を失いました。
政治主導などを掲げ、大きな期待を背負って始まった民主党政権は3年3か月で幕を下ろしました。
(川内博史衆議院議員現・立憲民主党)「安倍政権を支えているのは民主党政権の失敗だと言って過言ではない。民主党政権がこうしますと言っていたことをしなかった、さらにはしませんと言っていたことをやっちゃった、ということは大変罪が大きい。弱い立場の人たちの利益を擁護する私たちは嘘をついてはならないし、ごまかしてはならないし、正直に戦っていかなければならない」
有権者の大きな期待を受けた平成の間になされた2度の政権交代はいずれも短命に終わりました。
一方、平成の30年では投票率の下落傾向も続いています。
政治への信頼・関心をどう高めていくかも次の時代の課題といえそうです。