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明治6年の政変とその後

西郷が政府を去った明治6年の政変。その前後の動きをお伝えします。


岩倉具視、大久保利通、木戸孝允ら政府首脳の欧米歴訪中、政治を担当したのは西郷隆盛、江藤新平、大隈重信、板垣退助らの留守政府です。

留守政府は、重要な政策決定は行わない約束でしたが、
明治5年から6年にかけて全国の戸籍の作成、太陽暦の採用など様々な政策を実行します。

「留守政府は例えば四民平等を実現し、電信も引き、学制あるいは徴兵制も全部準備した。明治維新の理想を具体的にやってみせたのが実は留守政府」

西郷と大久保は手紙で連絡を取り合っていて、大久保がひげと洋服姿の写真をサンフランシスコから送ると、西郷は「見苦しいの極み。写真を撮るのはやめなさい本当に気の毒だ」とからかう返事を書いています。

 

しかし、その2人の間に征韓論をめぐり対立が生じます。

明治6年、西郷は、「国交を求める使者として朝鮮に行く」と主張。10月の閣議では、大久保と対立していた江藤のほか板垣、後藤象二郎も賛成しました。一方、大久保、木戸、大隈らは国内改革を優先すべきとして反対し、征韓論を退けます。

この結果、西郷は政府の役職を辞め、江藤、板垣、後藤らのほか軍人と官僚およそ600人が政府を去りました。

 
「あの時、西郷と大久保が2人で会ってゆっくりと協議を開いて話をしたら西南戦争は回避できたのではないか。違う意向の明治が開けた気がする。」


「誤解される人も多いが、喧嘩別れを完全にした訳ではない。西郷が野に下って鹿児島へ帰るときに最後に会ったのは実は大久保。大久保に「あとは頼む」と言っている。
言われた大久保は「あなたはいつもそう。気に入らないと国元へ引き下がるけれども私はどうしてくれるんだ」と言っている。
お互い文句を言いながらも盟友だからお互いの内を分かっているので、じゃああとはよろしく頼むという形で最後は去っていき、大久保はそれを引き受けた形になっている。」

 

11月、大久保は内務省を設立し、警察、国土交通、地方行政などを掌握。富国強兵と殖産興業を推し進めます。
一方で税は重くなり、政府に不満を持つ士族や農民も出てきます。

明治7年2月、江藤を首領にした不平士族が佐賀で決起。

大久保は佐賀に入って鎮台兵を指揮し対応します。鎮台兵は、徴兵された農民が中心で士族にあなどられていましたが、2週間で反乱を鎮圧。大久保は江藤を処刑しました。

明治9年3月、政府は刀を禁止する「廃刀令」を出し、8月には士族に支給してきた秩禄廃止を決定。
刀と収入を取り上げられることに士族は反発し、10月には熊本で神風連の乱、福岡で秋月の乱、山口で萩の乱が起きましたが、いずれも短期間で鎮圧されます。三重などでは増税に反対する大規模な一揆も発生し、5万人以上が処罰されました。

世の中が騒然とする中、西郷がいる鹿児島には士族が集まる私学校があり、その動向が注目されていました。